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三島由紀夫のフローラ

三島由紀夫のフローラ

三島由紀夫のフローラ   谷川渥  

flora—all the plants of a particular place or from a particular time in history

(Cambridge Dictionary)

 三島由紀夫自決の翌日、一九七〇年十一月二十六日の「毎日新聞」夕刊に、ドナルド・キーンDonald Keeneは「三島由紀夫の死」と題する追悼文を発表した。そのなかでキーンはこう書いている。   たとえば二年前一緒に奈良の三輪山へ取材旅行に行ったが、自然をあれほど美しく書 いた三島さんが、木や花や動物の名前をほとんど知らないことを発見して私は驚いた。 神社の裏山で三島さんは年寄りの庭師に「何の木か」と尋ねた。男は驚いて「マツ」 と答えたが、松の種類を問われたのだろうと思ったか「雌マツと読んでいます」と言 い直した。すると三島さんは、鉛筆を片手に真顔で「雌マツばかりで雄マツがないの に、どうして子マツができるの」と聞いたものだ。   たしかに三島は、アカマツを雌マツと言い、クロマツを雄マツと言うこと、そしてこれらの名称は、一方の葉が比較的短くて柔らかく、幹も赤味を帯びているのに対し、他方の葉が比較的長くて硬く、幹も灰黒色であるという、ひとえに外見の印象から来ているので、生物学的な雌雄とは関係がないことなどは知らなかったらしい。しかし、この一点をもって三島の植物学的知識が皆無であると結論するのは酷というものであろう。キーンは、三島の『近代能楽集』、『宴のあと』、そして『サド侯爵夫人』を英訳し、彼と生涯親しく交友した日本文学の専門家である。その彼をしてこういうことを言わしめるのかと、私などはいささか驚きを禁じえない。 実際、三島が一九三八年、十三歳の折に平岡公威(ひらおかきみたけ)の本名で発表した実質的な処女作のタイトルが『酸模(すかんぽう)』であり、一九四一年に初めて三島由紀夫のペンネームで発表した小説のタイトルが『花ざかりの森』であることを思い起こせば、三島の文学世界がなにか植物的なものと密接に関わりながら展開を見たのではないかと推測したくもなろうというものである。『朝顔』『朝の躑躅(つつじ)』『あやめ』『十日の菊』『熱帯樹』『牡丹』『夜の向日葵(ひまわり)』『離宮の松』といった小説や戯曲、あるいは「桜」「菊花」「紫陽花」などの少年時のエッセイのタイトルを眺めれば、少なくとも彼が植物の名前をろくに知らなかったとだけは断言できそうにない。 いや、松というなら、三島は『豊饒の海』四部作の第一巻『春の雪』の主人公の名前をなぜ松枝清顕(まつがえきよあき)にしたのか問うことすらできよう。松枝(まつがえ)とは、文字どおり「松の枝」という意味だからである。松に対しては、三島はある種の思い入れ、あるいはこだわりのようなものを持っていたのではあるまいか。キーンの伝えるエピソードも、してみれば少し違ったトーンを響かせてくれているように思える。 もうかなり前のことだが、私は奈良市郊外にある円照寺(えんしょうじ)を訪ねたことがある。『豊饒の海』第四巻『天人五衰』のラストシーンに登場する月修寺(げっしゅうじ)のモデルとされる門跡寺院である。山門までの長いなだらかな坂道を歩きながら、私は三島の情景描写の精確さに舌を巻いたものだった。 山門へ向かって歩く七十六歳の本多繁邦(ほんだしげくに)ー松枝清顕の友人にしてこの物語の傍観者ーの目を通して、両側に松の多い道の描写が続くのだが、そこにこういう一節がある。   沼があった。沼辺の大きな栗の強い緑のかげに休んだのであるが、風一つなくて、水 すましの描く波紋ばかりの青黄いろい沼の一角に、枯れた松が横倒しになって、橋の やうに懸つてゐるのを見た。・・・葉末までことごとく赤く枯れた横倒れの松は、枝 が沼底に刺つて支えてゐるのか、幹は水にひたつてゐず、万目の緑のなかに、全身赤 錆色に変りながら、立つてゐたころの姿をそのままにとどめて横たはつてゐる。疑ひ やうもなく松でありつづけて。   私もこの沼を確認した。そしてそこにはまさに枯れた松が横倒しになっていたのである!三島がこのような精緻な描写を続けながら、そこで松枝清顕のことを暗示していなかったとはとても考えられない。沼の上に横倒しになった松とその枝のありようは、まるで松枝清顕の「輪廻転生」の帰趨を象徴しているようではあるまいか。 三島の植物的想像界のなかで特権的な位置を占めるのは、しかしなんといっても薔薇である。薔薇は東洋原産との説もあり、実際『古今和歌集』(十世紀初頭)以降、日本文学に薔薇の名前が散見できないわけではなく、江戸時代には伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の《薔薇小禽図》(一七六〇年代)のような素晴らしい絵画作品も存在するけれども、それにしても薔薇が日本の想像界にしっかりとその存在を確保したのは、やはり近代になってからだろう。ちなみに、新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、アメリカ滞在中に執筆した『武士道』(一八九九年)のなかで、西洋を薔薇で代表させ、対するに桜で日本を代表させている。西洋対日本が、審美的にも倫理的にも薔薇対桜に置き換えられたのである。日本の近代文学史上に「薔薇狂い」の系譜をたどることができるが、いずれにせよそこで薔薇がモダニズム的な負荷を帯びていることを忘れてはなるまい。 三島の薔薇への執着が特異なのは、それがなによりもまず人間の肉体の比喩あるいは象徴として用いられていることだろう。薔薇が鮮烈なかたちで登場するのは、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』(一九四四年)である。「遊女紫野(しの)を殺害」の項において、この「殺人者」の刃は、彼女の「内部へ入らず、内部へ出た」と記述される。外部と内部との素朴な二元論を危うくする「内部へ出る」という表現。そして唐突に、「一つの薔薇が花咲くことは輪廻の大きな慰めである」という一文が続く。肉体の比喩としての薔薇が輪廻という観念と結びつけられる。この観念連合は、その四半世紀後に書かれた『豊饒の海』第三巻『暁の寺』に際立った姿で再登場することになるが、ここでは薔薇が肉体の比喩として用いられている驚くべき一節を上げておこう。『金閣寺』(一九五六年)において、アメリカ軍の空襲によって腸の露出した工員が担架で運ばれていく様子を見た主人公はこう語る。   内側と外側、たとへば人間を薔薇の花のやうに内も外もないものとして眺めること、 この考へがどうして非人間的に見えてくるのであろうか?もし人間がその精神の内側 と肉体の内側を、薔薇の花弁のやうに、しなやかに翻(ひるが)へし、捲き返して、 日光や五月の微風にさらすことができたとしたら・・・   『金閣時』のこの一節は、「内部へ出る」という表現の一つの恐るべき変容であろう。 三島由紀夫の植物的想像力、その植物相(フローラ)は、人間の肉体といういかにも動物的な存在性(faunaファウナ)と微妙に絡み合っている。とりわけ彼の鍛え上げた筋肉隆々の肉体を思い浮かべるなら、彼の「フローラ」について語ることにはなにか違和感を感じるかもしれない。しかし、自決前に写真家細江英公に撮らせた写真集のタイトルは『薔薇刑』である。死にいたるまで彼は薔薇にこだわり続けた。三島由紀夫について語るとは、彼における薔薇について語ることと等しい、とさえ言えそうに思う。私はそうした三島論を「薔薇のバロキスム」と呼びたいと考えている。